August 10, 2009

池田屋騒動址

元治元年(1864)旧暦6月5日亥の刻(22時)新撰組は三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」を襲撃しました。

長州、土佐、肥後各藩の尊皇攘夷派が京都に火を放ち、混乱に乗じて朝廷を長州に移そうというクーデターを密談していたんですね。

Img_3863乱闘は1刻(2時間)に及んだといわれています。

長州の吉田稔麿(とじまろ)肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)ら7人が死にました。この事件で討幕が1年遅れたと言われるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。

一方、新撰組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげました。

現在、池田屋址には石碑が立つのみ。不況の影響か空きテナントの前にあり、新撰組の有終の美は微塵も感じることはできませんでした。

京を焼け野原から救ったのにね。

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July 26, 2009

東洋のゴッホ

木村蒹葭堂とも交流があった浦上玉堂は『東洋のゴッホ』と呼ばれています。

誰が言っているの?と言われれば、ドイツの建築家ブルーノ・タウト

「この人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。彼は『自分のために』描いた、そうせざるを得なかったからである。彼は日本美術の空に光芒を曵く彗星のごとく、独自の軌道を歩んだ。」???(・_・)....?

と、褒めちぎったらしいんです。

かなりの親日家だったらしいですよ。

玉堂は延享2年(1745)岡山城下備中鴨方藩邸内で生まれます。

播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔で、浦上宗景からは5代目の孫にあたる、由緒正しいバリバリの武士。

鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったにもかかわらず、琴詩書画にふける文化人としての生活を送っていたことから、周囲は冷ややかな目で見ていたみたいですよ。eye

玉堂の本名は孝弼(たかすけ)字は君輔(きんすけ)通称は兵右衛門、36歳の時より自ら愛用の七絃琴の銘に因み、玉堂琴士と号す。

自分の子供にも『春琴・秋琴』と『琴』を付けるぐらい琴好き。

自由人って感じですよね。しかし、武士に自由はない。ましてや上級武士で武士を監督する大目付ともなるともってのほか。

そんなもんだから、50歳の時、2子を連れ、岡山を出奔。諸国放浪の旅に出ました。

放浪している間に独自の画法を極めたようです。

晩年は京都に定住し、文政3年(1820)没。お墓は京都本能寺にあります。

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代表作

国宝「東雲飾雪図(とううんしせつず)故川端康成蔵」

重要文化財「山雨染衣図(さんうせんいず)」等

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April 13, 2009

伊藤甲子太郎殉難の地

伊藤甲子太郎は尊王派だったため、局長近藤勇と相反するようになり、慶応3年(1867)3月に同志15人とともに新選組を脱退して御陵衛士となった。
同年11月18日、近藤勇は妾宅に伊東を招いて酒を振舞い、その帰路、伊東を待ち伏せしていた新選組隊士が襲撃。伊東は槍先が肩より咽を突き通され、本光寺門前にあった石塔に倒れかかり「己れ好賦輩」の一声を最後に絶命した。
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「ここに手をついたんだよ」
本光寺門前にイスをだして座っていたおじいちゃんが教えてくれました。

当時、門はもっと奥にあったので、ここに倒れこんだらしい。そのときに板塀に手をついた。
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「ほれ、ここ。血が……」ってなわない

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「新撰組は甲子太郎の死体を引きずって、『伊東ハム』って看板が見えるだろ、あそこまでもっていったんだよ」
おじいちゃんの指差す方を見ると、2ブロックぐらい先に『伊東ハム』の看板が見える。


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新撰組は伊東一派をおびき出すために屍骸を放置。遺体を引取りにきた御陵衛士を襲撃。
藤堂平助を含む3名が討死した。
近藤勇は「藤堂平助は命を助けるように」と密かに永倉、原田に要請していたらしいのですが、藤堂は背後から一刀を浴び、さらに振り向きざま二の太刀を顔面に受け絶命したそうです。


幕末は血なまぐさいから嫌いなのよねぇ
新撰組は内輪もめ、「粛清・粛清」で仲間をどんどん殺しちゃって、本来の目的より『粛清』で殺しているほうが多いんじゃない。
嫌いだから苦手になっちゃう。o(゚Д゚)っ

いつもおじいちゃんにナンパされているけれど、今回は逆ナン。
古い話しはおじいちゃんに聞くのが一番だね。ヽ(´▽`)/
おじいちゃんは京都弁だったのだけれど、表現するのが難しく普通(江戸弁?)に書いてしまった。


clip
本光寺  下京区油小路通木津屋橋上る

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September 11, 2008

京都の地蔵盆

8月24日前後に京都では地蔵盆が行なわれます。

Img_3595_2 お地蔵さんは子供を守ってくれる神様なので、このお祭りの主役は子供です。

子供の健やかな成長を願って、朝早くお地蔵さんを清め、花やお餅などを供えて飾りつけをします。

京都の町には町内に1つはお地蔵さんがあって、町それぞれ独特の飾りつけ、イベントを行ないます。

子供たちにとっては、お菓子をもらったり、ゲームをしたりと夏休みを締めくくる子ども会になっているみたいですね。

おとなにとっては結構大変みたいで、事前の準備や奉納の前掛けを作ったり、子供が生まれたときには子供の名前を書いた提灯を奉納するところもあるそうです。

Img_3597_2 今回、見られなかったのですが、「ふごおろし」と呼ばれる福引があって、二階の窓から宝船に見立てた箱に景品をのせてロープで1階に下ろす。と、いう行事を昔はやっていたようです。

町屋の2階から下ろすんだったら絵になりますけれど、マンションじゃねぇ~

いまではそういった風習も無くなりつつあるそうです。

I65_2 また、地蔵盆自体もやらない地域がでてきたとか。お地蔵さんをお清めしていたおじさんたちがなげいていました。

「東京ではあらへんの?」

そう言われれば、『地蔵盆』は聞いたことありませんね。

昔、○○年前、お稲荷さんで「子ども会」をやっていたことを思い出しました。やはり、お菓子をもらったり、ゲームやカラオケ大会などなど、婦人警官が交通ルールの紙芝居をしてくれたかなぁ?近所のおばさんだったかなぁ。覚えていないけれど、そんなようなこともしていました。

Img_3679_2 共働きの家庭が増えて、なかなか面倒臭がって運営をしてくれる大人がいなくなったことと、子供が減ったことで、いつのまにかなくなってしまいました。

お神輿の担ぎ手もいなくって、2~3の町が合同でお祭りを開催したり、町内の枠を超えて担ぎ手を募集する始末です。

寂しいですね。

京都では頑張って風習を残して欲しいですね。

とある町のスケジュールです。

○○地蔵盆行事表

日時 8月24日(日)9時~16時

場所 ○○中学校 裏門広場

9時15分  お経(数珠まわし) ○○寺

10時    おやつ(ジュース付き

12時    お昼(おにぎり)

13時    ゲーム(人形すくい)

15時    おやつ(ジュース付き)

15時30分 福引 

        各ご家庭にお下がり配布

16時    終了(後片付け)

Img_3721_2 『数珠まわし』とは

子供たちが、直径2~3メートルのお数珠の周りに座って、お寺さんの読経にあわせて順々にまわします。

子供たちが唱えるお念仏は地域によって違うらしいです。

平安の都に疫病が流行したときに、後醍醐天皇が知恩寺の空円に、疫病を鎮めるよう命じました。空円は紫宸殿に籠もって7日間念仏を唱え続け、疫病を封じた。このとき唱えた念仏の回数が百万遍。後醍醐天皇より百万遍の勅号と大念珠などを授けられた。 そういわれれば、『百万遍』という地名があったような気がする。

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September 06, 2008

まぼろしの屯所 不動堂明王院

ここも新撰組最後の屯所跡といっているところです。

「京都坊目誌」によると、新撰組の不動堂村の屯所は、「堀川の東、木津屋橋の南」とあるだけで正確な場所は記されていないそうです。

屯所は官軍に取り壊され、新撰組生き残りの永倉新八が後年その場所を訪れた時にも、町が様変わりしていて、全く分からなかったそうです。

Img_3586_2「ここが本当だ!」「いや、こっちだ」と騒いでいるのは新撰組ファンの観光客だけで、京の人々はどうでもいいみたいですね。

「新撰組」と「新選組」もどっちでもいいみたいで、当の土方歳三も両方の字を使っていたそうです。

ここは、弘法大師空海が、東寺の鬼門にあたるこの地で、不思議な霊石を発見し、その石に自ら不動明王を彫刻して、それを石棺におさめて、井戸深くに安置しました。その不動尊を「霊石不動明王」と名付けて、堂宇が創建されたそうです。


不動堂明王院の限定日本酒「まぼろしの屯所」があるそうです。お不動さまの霊力を封入した霊験あらたかなお酒。ありがたくって飲めないですよね。

お不動様の隣には「道祖神社」がありました。Img_3587

道祖神は古くから信仰されている神様で、村の境や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形で祀られています。

大概は男女一対で村の守り神、子孫繁栄の神さまですが、最近では交通安全の神として信仰されています。

新撰組とは関係なさそうだったのですが、仲睦まじい男女の石像だったので、取りあえず「縁結び」祈願しました。

飾られた提燈には『交通安全』の墨痕が。

まいいっか(#⌒▽⌒) 

 

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新撰組不動堂村屯所跡

西本願寺を追い出された新撰組は不動堂村に屯所を移しました。

引越しの直前に幕府直参に取り立てられ、屯所は大名屋敷に紛う立派な構えだったそうです。費用は追い出した西本願寺が全額負担したそうです。そんなに嫌いだったんですかねぇ。

そんな立派な屯所も半年ほどいただけで、伏見に移ってしまいました。

そして慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが起こります。Img_3581

期間が短かったため正確な位置が不明で、現在、3箇所で「ここが・・・」と標石や解説板を立てています。

そのうちの一つがハトヤ瑞鳳閣です。地味な感じで解説

Img_3584

板が立っていました。

瑞鳳閣の後ろに「うちが屯所あとだ!」という不動堂があります。

リーガロイヤルホテルにも「ここが屯所あとです!」と標石があります。

近所のおじいちゃんが

「関東の人は新撰組が好きだねぇ、ここらではあんまり人気がないけど」

そりゃそうだろうなぁ、関東の田舎者がズカズカと京の都を歩き回り、市中警護といっては刀をふりまわしているんだもん、好かれる理由がない。

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